指先
吹き抜ける風が幾許か冷たくなってきた頃に、庭に面した戸を開けたまま寝たせいなのか、それとも数日前から何となく喉の調子が悪かったせいなのか、風邪とわかる風邪を引いた。 生まれてこの方、丈夫さだけが取り柄とも言うべく自分が横になる姿など想像するのも嫌なのだが、事実このように横になっている自分に嫌気がさした。 ただ横になるだけというのは存外暇なもので、せめて此処に碁盤や筆と紙さえあればとは思うのだが、動いては治らないと景勝に言われ側用人もそれに従っている為、本当に部屋には何もないのだ。 声を掛けても用事がない限りはまともな返答をしてもくれない。 じっと天井を見つめて、最初の頃は慣れなかったこの部屋にも随分と慣れたものだと、しみじみそう思う。 瞳を閉じれば五感の一つが閉ざされたからなのか、やけに聴覚が冴える気がした。 襖の奥の、庭先で鳴く鳥の声が妙に耳に残りふと寝返りを打つ。 布団の擦れる音がして、それと共に聞き覚えのある声が耳に入ったような気がした。 此処にいる訳が無い者を、思い出す。 その者に文を返さなければと思っていた矢先に倒れたもので、筆と紙を特に欲したのはそのせいだった。 季節の挨拶から始まり情勢の報告をし合う。 情勢と言うものは一分一秒変わりゆくものであるから、的確な情報であるとは言えぬかもしれないが今こうして横になっているうちにも何かが起きている。 『景勝様もお人が悪い』 何かが起きてはいるが、今のところこの地は安泰だとわかっているからこそ休ませる。 少し情勢が傾けば熱が出ていようが咳をしていようが、上杉家にとって直江の存在は無くてはならないものなので引っ張ってでもいくぞ、という意味が込められている気がした。 無論、景勝が制止しても直江は行く気でもあるが。 その景勝の足音がして、一歩一歩踏み締めるように歩くその音は相変わらずわかりやすいと含み笑いを漏らしつつ、眠っている振りをした。 襖の開く音がして景勝以外にもう一人、人の気配を感じ取り誰だろうと暫し考える。 景勝と共に部屋に来るぐらいだ、慶次かとも思ったがその足音ではない。 部屋の外で待機させない辺り、それ相応の身分者としか考えられない。 瞬時にそこまで思考を巡らせ、さて誰だろうと思案する前にその声を聞いて驚いた。 「上杉殿、無理を聞きいれて下さり有難う御座いました。生憎眠っているようで、私は本当に間が悪い。少しばかり待たせて頂いても宜しいでしょうか」 「無論、その方が兼続も喜ぶでしょう。くれぐれも移されぬように、では私は失礼します」 「はい、有難う御座いました」 直江の脳に残るその声は、此処に紙と筆があれば文を送ったのにと思っていた相手に相違なかった。 景勝との挨拶を交わし、その特徴的な足音が少しずつ、少しずつ己の部屋から遠ざかっていくのを耳にしてちらり、薄く目を開いてその姿を確認する。 そこには紛うこと無く、石田三成の姿があった。 石田は何度か瞬きをして、不意に、笑む。 「何だ兼続、起きていたのか」 気付かれないように、物音一つ立てずただ僅かに瞼を上げただけだというのにその些細な変化に気付かれた。 相手は景勝ではなく石田だ。 何を隠す必要があろうかと思いもしたが、そう簡単に見破られたのが少し、歯痒かった。 「…ふむ。兼続はよくわからんな」 それはよく、直江が石田に対して言う言葉でありしっかりしているようで気の置ける友人と逢うと、何処かズレている直江が疑問に思う事が出来ると言うのだ。 身に覚えがあるからこそ反論が出来ず、このまま意地を張って狸寝入りをしてやろうかとも思ったが石田が遥々京から来ているのだ。 中々無いこの機会を大事にしない方がどうかしている。 もぞり、布団が擦れる音と共に直江が石田の方へと寝返りを打つ。 視線と視線がぶつかり合い、口さえ開かなければといわれる石田の表情が己の為に、緩む。 白くか細いその指が己の額を撫で、元より冷たいその指先が熱い額へと触れ、触れられた先からじわじわと熱が奪い取られるような錯覚に陥ると共に、指先の一点に風邪の熱とは違う熱が篭るのがわかる。 何と浅ましい身体だろうか。 「何故、此処に三成がいるのだ。太閤殿はいいのか」 「その秀吉様の使いで出てきたのだ。序で、と言っては聞こえが悪いが此処最近兼続からの文がないのでどうしたのかと思って来たら、まさか風邪だったとはな。直江山城殿が風邪とは、珍しい」 「ば、馬鹿にするな三成。私とて…風邪などひくとは思っていなかった」 私的な席で石田にそう呼ばれる事はない名で呼ばれると酷く居心地が悪く、石田の指先を思わず振り払って顔だけ反対側に向けてやる。 身体ごと向けなかったのはせめてそう、石田が気付いてくれるようにだ。 無論幾ら鈍い男だとは言ってもこの程度の変化には気付いてくれる。 直江の艶のある黒髪へと軽く指先を通し、撫でるように梳きまるで子供でもあやすかのように合間に軽く頭を叩く。 これではいつもと立場が逆だと石田自身も、そして直江自身もよくわかっている。 直江からしてみればなんとなく悔しくもあり、こうして甘えていたいと思ってしまい軽く頭を振った。 すると石田の指の間で直江の黒髪が揺れ、乱れ、それを整えるようにまた、頭を撫でる。 石田の冷たい指先が髪を通して頭部に触れる度どうしようもなく、ただどうしようもなく熱くなる。 不意に、微かに此方を見る直江が石田の冷たい手を取り、握り、それからまた一度離して指先を絡め合うようにして握り直した。 じわじわと、石田の指先の冷たさを直江の熱い手が熱へと変え、少しずつ指先の温度が均等になっていく。 「よく、…指が冷たい人の心は温かいと言うが、それは本当だな」 「何を急に。少なくとも俺は、指は冷たいが自分が温かい心の持主だとは思わんぞ」 「いいや、三成の心は温かい。それはきっと、触れたものにしかわからない温かさなのだろうな」 「馬鹿を言え、兼続の方が温かい。身も心も、というものだ」 互いにああだこうだと言いあうとどちらかが折れるまで終わらないのだが、直江は本当にそう思っていた。 石田三成と言う人は穢れを知らぬ、心の温かい人だ。 だから指が冷たい。 自分は穢れきっているし、何より己の中にある冷徹な性格に直江自身気づいている。 だから指が温かい。 きっと、心が冷たい分温かいのだろうと、変なところで人間の身体と言うものはよく出来ているのだと思った。 石田の指先の体温を感じる度に己の根本にあるものを感じていたが、その温度差が嫌いだとは言えなかった。 言えば、言ってしまえばそれで終わりのような気がして。 何が終わるのかと問われればそれは答えようも無いことなのだが。 「埒があかない、…これでおあいこにしよう」 「…ふん、仕方のない奴だ」 ぎゅっと、少しばかり直江は指先に力を込めて笑む。 直江の温かな指と、石田の冷たい指が合わさっていたせいでお互いの体温が丁度よく融和していく。 せめて、せめて風邪さえ引いていなければ。 身も心も合わせて溶けてしまえたのに。 いっそのこと、指先から溶けてしまえばいいのに。 FIN. 081015 |