「官兵衛殿って、隙だらけだよね」

庭先に面する開けられたままの襖の奥から、不意に掛かる声の主を官兵衛はわかりきっている。
常日頃よく聞くその声、加えて悲しい話ではあるが官兵衛に声を掛ける者など極少数なのだ。振り向くのも億劫だとばかりに、官兵衛はそのままの姿勢で手にしていた筆を紙へと走らせた。官兵衛が返事すらしないのも慣れっこだとばかりに、半兵衛が官兵衛の後ろへと歩みよりすっとその肩口から手元を覗き込む。
達筆なその字面に性格が滲み出ているのがわかると、つい笑みが漏れてしまうのだが今日は用があってきたことを思い出すと、屈めた背を正した。

「官兵衛殿、秀吉様が呼んでたよ」
「すぐに行く」

言いながら官兵衛が重い腰を上げる。その動作はゆっくりしたものとはいえ行動は素早く、半兵衛は振り向きもされなかったのだから少しばかりの嫉妬心は湧くものだ。颯爽と登城する為に衣服の埃を払ったり等、佇まいを正す姿を見てちらりと視線を外した。官兵衛の部屋から見える庭へと視線を向けた後、準備完了とばかりに待ち構える官兵衛を見て半兵衛はわざとらしく、驚いたように何度か瞬きをした。

「官兵衛殿、残念ながら明日の話」
「そういうことは先に言え」
「官兵衛殿が急ぎ過ぎなんだよ」

そう言いながら、傍から見れば少しも変わりの無い表情が少しばかり残念そうに変わり、官兵衛は元いた場所に座り直し再び筆を手にした。半兵衛の存在など気にもしないかのようなその態度に、いつものことながらつまらないと半兵衛は官兵衛の背に寄り掛かるようにして身を預ける。重たい、と口にはしないがそう言わんばかりに官兵衛の背が押し返してくる。それに負けぬように、更に力を込めると官兵衛の背が若干丸くなる。退けることは諦めたらしい。
官兵衛の背に身体を預けたまま、庭の先のもっと先に見える空へと目を向けた。今日は風が強く、その影響で雲が押し流されていく。随分と早いその速度に風が更に強くなってきているのを感じると、まるで自分と官兵衛のようだと、ふとそう思った。

「官兵衛殿は秀吉様のこととなると風みたいだよね、俺は官兵衛殿に置いていかれないようについていく雲かなぁ」
「風は卿の方であろう…色々なものを引っ掻き回して行く」
「なんかそれ、あんまり褒めてなくない」
「十分褒めているつもりだが?」
「かーわいくないのっ」

ピタリと背へとつけていた頭を一度持ち上げて、遠慮もなく官兵衛の背中に落とす。鈍い音がしたがそれすらも聞こえない振りをしてやった。ぐらぐらとその背を揺り動かし、官兵衛の手許を狂わせる。幾ら達筆な官兵衛と云えども手許を狂わされて迄まともに字が書ける程では無い。これはもう、半兵衛の相手をするしかないのだとか細く溜息にも似た息を吐いた。
この官兵衛独特の息の吐き方が一種の合図だ。
今まである意味、攻撃をするように寄りかかっていた半兵衛の動きが、鈍くなる。ゆっくりと、心ごと預けるように微かに身体を揺り動かして満足気な笑みを浮かべる。それこそ、官兵衛に見られることがないとわかっているからなのか、心から満足気な笑みだ。

「しかし、風と言えば卿の知り合いに風神とやらがいるではないか」
「へ?…もしかしてそれ、宗茂のこと言ってる?」

突然の振りに一瞬、何処から声が出たのかと思うほど素っ頓狂な声を出してしまい、半兵衛は反射的に口元を覆ったが一度咳払いをした後、脳裏に浮かんだ人物のことを口にした。その様子を見て、僅かに触れ合った布が擦れる。どうやら頷いているらしかった。
立花宗茂、確かに彼は九州で立花ァ千代と共に風神雷神と呼ばれている。だが、官兵衛が宗茂の事を知っているだけならばまだしも、半兵衛と接点がある、ということを知っている方に驚いてしまった。
あの官兵衛が、である。
天下を思えばこそ沢山の志士を知ってはいるのだろうが、無論謀略の為に人間関係に詳しくなるのもわかるのだが、己の事を少しでも知っていてくれるというその事実が素直に嬉しい。だがしかし、幾ら官兵衛と云えども否定しておかねばならないことはある。

「俺、別に宗茂とは知り合いじゃないよ。アイツ性格悪いし」
「類友と言うやつか」
「だから、友達でもないってば。大体さぁ、俺が官兵衛殿と宗茂を一緒にする訳ないじゃん。官兵衛殿は性根が曲がっているだけで、性格悪くないんだから」
「褒めるか貶すかどちらかにしろ」
「褒めてるよ、そう聞こえない?」
「聞こえんな」

それもそうだ、先程の仕返しなのだから、そう思いつつも口には出さない。出さずとも、官兵衛にはわかっている。官兵衛との、この何気ない言葉のやりとりが好きだ。ああ言ってきたらこう返そう、もしかしたらこう来るかもしれない、そう二手三手先読みしつつも結局のところはその場で感情のままに返してしまう。それもこれも、官兵衛にだけだ。

「ねぇ官兵衛殿」
「なんだ」
「宗茂と一緒は嫌?」
「興味がない」
「嫌なんだ」
「興味がない」
「ちょっと妬いた?」
「くどい」

少しばかり官兵衛に体重を預けて聞いてみる。 取り分け何かに喩えたい訳でもないのだが、官兵衛が不服そうなのがなんとなくだが、わかる。そこに宗茂の名前が出てきたものだから、まさか、という淡い期待も生まれてしまうものだ。
一度身を起こすようにして官兵衛の背から離れると、触れていた分ひんやりとしたものが背を襲い半兵衛は一度身震いした。そのまま後ろから覆いかぶさるようにして手を回し、官兵衛の肩へと顎を乗せた。鬱陶しいとばかりに官兵衛が顔を背ける、その仕草が半兵衛は好きだ。

「私が風であれば、卿はこうして触れられぬ」

そう、ぽつりと官兵衛が呟くものだからじわじわと嬉しさが込み上げてくる。言い方こそ選ばないものの、半兵衛にはその婉曲の意味がわかる。嗚呼、触れていてもいいのだと改めて自覚させられた。
他者にも己にも壁を作る官兵衛が、そういうのだ。これ程嬉しい事は無い。
甘えるように頬を擦り寄せると、こけてざらりとした官兵衛の肌が当たる。その感触すら全てが愛しさに変わっていく。そこから少しばかり角度を変えれば肌へと唇が触れた。

「うん。…ねぇ、官兵衛殿。だからもっと、触ってもいい?」
「襖を閉めるならば、良い」

随分と奥まった箇所に位置する官兵衛の部屋に来る者など、いない。
それを気にする官兵衛ではないのだが、何か一つぐらい理由を告げねば声を出せぬ気がした。
瞬間、一陣の風が舞い官兵衛の髪を揺らす。
矢張り風は、官兵衛ではない。
官兵衛を掻き乱して行くものなのだ。






FIN.
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