置いていって、もう戻ってこなくていいから



置いていって、もう戻ってこなくていいから

半兵衛が倒れてからと言うもの、忙しい合間をぬって時折官兵衛が様子を見に来るようになった。その気遣いが半兵衛にとって、嬉しくもあり辛くもある。官兵衛がこんなに優しい等、どうにかしているのだ。
相変わらず寝たきりのような状態になっている半兵衛のもとに、今日もまた、官兵衛がやってきた。いつも通り、きちんと姿勢を正したまま半兵衛の傍へ腰を下ろす。そうしていつも通り、重々しく口を開くのだ。

「半兵衛よ、暫し出る。故に卿の元には暫くは来られぬ」
「そっか、気をつけてね。官兵衛殿が帰って来る迄、待ってるよ。多分」
「待っていろ」
「約束?」
「約束だ」
「官兵衛殿が約束って、似合わないし柄じゃない」
「それでもだ」
「何それ、官兵衛殿が横暴だ」

珍しいこともあるものだと、口端を僅かに上げて笑みを象った。もう声を上げて笑うのが苦しい、しかし官兵衛相手には冗談を交えて話さなければ自分自身どうにかなってしまいそうだった。
半兵衛は床についていても、ある程度の情報は持っている。故に、次に官兵衛がいく予定の場所にも想像がついていた。幡州は忙しい。織田か毛利かに揺れる中、官兵衛は身一つで投げ出されているのだから、もっと忙しい。
恐らく、信長へと反旗を翻した荒木村重の元へ説得に行くのだ。
官兵衛等、ある意味この幡州に戦を引っ張り込んできた張本人である。故に官兵衛に対して好意を持つ諸将が何人いることか、恐らく片手で埋まる程であろう。聞けば官兵衛の仕える小寺藤兵衛ですら、官兵衛を疎ましく思っているらしい。つくづく報われない男だ。
何も聞かず、何も言わず、送り出してやるのが一番なのだろう。そう思ってはいるのだが、つい好奇心と共に胸を過る不安に口を開いた。

「村重の所に行くの?」
「…そうだ」
「死にに行くの?」
「違う、説得に行く。さすれば我が小寺も」
「俺は無理だと思うなぁ〜。村重はそんな人じゃない」

単身村重の元へ乗り込むなど馬鹿げているにも程があるが、官兵衛は本気だった。本気で村重を説得に行こうとしている、そして村重は熱心に訴えかければ説得に応じるのではないかと思っている。半兵衛の見解からして、それはまず有り得ない。
官兵衛も万が一の場合は死を覚悟しているのだろう、珍しく握られた拳に力が籠っているのがわかった。今更、半兵衛が何をどう言おうと官兵衛の決意は変わらない。

「それでも…私は行かねばならん」
「そうだね」

故にこうして肯定するしか半兵衛に残された選択肢は無いのだ。
では、と立ち上がり振り返りもせずに出て行こうとする官兵衛の背をじっと見つめ、唇を開く。一瞬、声が出ずに喉が震えたが小さな音を立て息を飲むと、まるでそれが合図だったかのように官兵衛が、振り向く。聞こえていない筈の音であるのに、そんな偶然ですら嬉しさが込み上げてくるなど、どうかしているとさえ思った。

「官兵衛殿」
「なんだ半兵衛」

何かを、言おうとしていた。
二人が別れる時はいつでも今生の別れを決意せねばならない時だ。それだけ半兵衛の身体を蝕む病の進行速度は早い。しかしこういうときに限って言いたい言葉も出て来ず、喉元まで上り詰めてまた下がっていった。
何を言おうとしたのかは半兵衛自身よくわかってはいないのだが、確かに言葉が出そうになった。その言葉を、恐らく理性が制したのだ。それ程言ってはいけない言葉だった。そう、思う事にした。

「…なんでもない」
「そうか。ではな」
「うん、気をつけて」

官兵衛は、今度は振り返らなかった。






それから数日した後、官兵衛が裏切ったという噂がまことしやかに流れはじめる。そんなことがある訳がないと至極冷静な判断を半兵衛はしたが、世間はそれを否とした。
裏切るはずが無いと思っていた村重が裏切ったのだからその心理はわからないこともない、それどころか普通に考えてそちらの方が理にかなっている。
官兵衛程度の身分であれば、捕縛されれば死んでいる可能性の方が、高い。生かされているとしても、少なくとも村重を討つ迄解放されはしないだろう。
それまでこの身体は持つのか。そう、己に問い掛ければ答えはわかりきっていた。
そんな時だった、信長から秀吉へ官兵衛が人質として預けている嫡男の松寿丸を殺すように言われたのは。秀吉は悩みに悩んでいたが、信長の命を破れる訳も無くその答えを伸ばすことしか出来なかった。

「秀吉様、その役目俺にやらせて貰えませんか?」
「しかし、おみゃあの身体は」
「懇意にしていた官兵衛殿の事だから、最後は俺が後始末をつけたいんです」

そう言われると、秀吉は何も言い返すことが出来ずにただ小さく「すまん」とだけ謝った。
半兵衛にとって近頃は与えられてばかりの自分が、官兵衛の為に出来る最期の大仕事だ。
流石に一人で歩いて行くことは出来なかったので、戸板の上に横になり、それを運ばせた。道中息苦しさを覚えたが、足は止めなかった。足、とは言っても半兵衛の足では無いのだが、それすらも胸が掻きむしられるようだった。
せめてこの足が、身体が自由であれば官兵衛の元へだって行けると言うのに、如何せん身体がどうにもならない。こんな状態で逢いに行ける訳も無く、行った所で足手まとい。それより何より、別れた時より格段に弱り切っている己の姿を見せたくはなかった。
顔形も朧げでしかない、官兵衛が女と交わった事の証である息子の松寿丸を見ても嫉妬はしなくなっていた。そんな自分に驚いて、半兵衛は自嘲する。

『俺はいつからこんなに物分かりがよくなった…』

以前迄ならば、作り笑顔を浮かべて人のいい振りをして、そして頭の中で罵っていたであろうに今はその笑みを浮かべることすら上手く出来ない。正常に機能するのは頭だけで、その思考すら身体に順応してきたのか以前よりも感情がのらなくなってきた。松寿丸のことを真っ直ぐに見れるのは恐らくそのせいだ。
松寿丸を自分の領内に囲って、その足で松寿丸に見立てた首を献上し、城攻めに参加した。
どう頑張ってももう官兵衛に逢うことは叶わない。
それならば戦場で、少しでも近い位置で死にたいと願った。
生きているのか死んでいるのかさえわからない相手を請うことは滑稽だろうか。
だが何処かで、半兵衛の頭の片隅で、官兵衛は生きていると核心していた。
情報があった訳ではない、故にみだりに報告は出来ないが、官兵衛は生きている。

『官兵衛殿は、俺と違って約束を違えない』

出来ぬ約束は口にしない、その男が自ら『約束』を口にしたのだから官兵衛は必ず生きている。そこまでくればあとはもう、信じるか信じないかの問題なので、誰にも言わない。
息が、苦しい。
他に、遺される官兵衛に、何か出来ることはないかと考え陣の中で半兵衛は筆を手にした。指にうまく力が入らず書くのに時間を労したが、一字一句全て自分の手で書き上げた。
もう官兵衛は半兵衛の元へと戻っては来ない、戻っては来れない。
自分自身嫌になるほど半兵衛の頭は現実的だ。万が一、億が一にも有り得ない話しではあるが例え官兵衛が解放されても、もう逢えはしない。
息を吸い込むと空気中の成分全てが二酸化炭素なのではないかと思うほど息苦しく、思考がぐちゃぐちゃになる。再び息を吸い込んでみたが、やはりそこには二酸化炭素しかなく、酸素を欲した。
呼吸をする度に苦しく、もういっそのこと呼吸を止めてしまえばいいのだと、半兵衛の身体は半兵衛の意思でその一切の機能を放棄した。






FIN.
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