不幸な人と、幸せな人



不幸な人と、幸せな人

トクントクンとゆっくりとした速度で響く鼓動の音がやけに大きい。普段は何かしら聞こえてくる外の音が、まるで全て遮断されたかのように静かだ。 部屋に一人ならば大して気にもならないこの静寂も、二人居てこうなのだから少しばかり居心地が悪い。

「ねぇ」

傍らの相手に声を掛けて見ると微動だもせず、少しばかり顎を引いてただ視線だけを向けた。
それが恐らく応えで、結ばれた血色の悪い唇は一向に動こうとしない。その唇に触れたいと手を出したところで、上から押さえつけるように青白い手が触れた。

「大人しくしていろ」

漸く喋ってくれたと思わず口端が上がるのを感じた。触れる腕へと指を伸ばして手首の辺りを軽く撫でる。ざらりとした、決して触り心地の良い訳ではない細い腕。その手が好きだった。
触れると少しばかり手を引く仕種を見せる癖に、追いかける力が無いとわかるとその動きを止めてしまう。少し前ならば、否応なく振り払われていたその手が、今はすぐ近くにある。
こういう優しさが、嬉しくもあり哀しくもある。

「官兵衛殿の意地悪」
「意地悪ではない」

トントンッと弾くようにその手首へと指先をあてる。離す気はないのだと意思表示をしたところで官兵衛はじろりと睨むようにして半兵衛を見下ろした。
薄暗い部屋の中で、真っ白な布団の上に横たわり笑みを浮かべる半兵衛の顔は著しく悪い。白い布団等、まるで死人のようだと官兵衛は思ったが半兵衛がそうすると言うのだから致し方ない。官兵衛にも、そして半兵衛にもどうしようも出来ないことがもうすぐやってくるのだから。

「意地悪だよ」

何処か可笑しそうな口調で告げる半兵衛の声に、涙の色が混ざっていた。共に過ごしていれば幾ら半兵衛が裏表を上手に使い分ける男であっても、官兵衛にはわかってしまう。ただそれが、何をもってそう言っているか迄はわからない。戦術であれば、半兵衛はいつも予測の斜め上をいく奇策ばかりと云えども、少しばかりの予想は立てられるのだが、官兵衛は人の、純粋な心を読む力だけはどうにも苦手だ。
掴まれていた腕に絡みつく指がするりと、力を失うかの如くそれは見事にぺたり、鈍い音を立てて畳へとつく。

「どうして、毎日こうも来てくれちゃったりするかな。俺が、弱っていく姿見られたくないだとか、官兵衛殿と別れるのが名残惜しくなるとか、本当はまだやりたいことが沢山あったのに俺だけ出来なくなるんだとか……そういう気持ちは無視ですか?」

一言一言、絞り出すたびに涙に濡れる声は時折荒々しさを増し自暴自棄になっているようだった。ただそうさせたのは己自身なのだと、官兵衛に植えつけるには十分で。それでも最後に敬語を使って見せたのはせめてもの嫌味だ。
少しばかり人のそういった感情に疎い官兵衛は、半兵衛がそう思う要素は十二分にあったのだと己を責めた。
せめて、せめて残された時間を共に過ごしたいと思ったのは全て、官兵衛自身の我儘だ。
しかしそれすらも半兵衛への重荷になっている等とは、何故か考えつかなかった。じっと、半兵衛を見下ろす官兵衛の唇が薄く開かれる。

「嘘だよ」

官兵衛の言葉を遮るように、半兵衛が呟く。
その頬は抑えきれなくなった涙が伝い、一筋の線を描いては白い布団へと染みを作った。

「……しかし」
「ごめん、違うんだ。本当は嬉しい。嬉しくて、嫌なんだ。優しくて、嫌なんだ。誰だって人の弱っていく姿なんて見て良い気持ちはしないし、別れるのが名残惜しいのは官兵衛殿だって一緒だって…俺は思っているし、官兵衛殿の性格上、言わなくったって変な責任感じて俺がやりたがってたことだって率先してやっちゃうんだろうなってわかってる。なのに、病気を盾にして不幸な振りをしている俺に、官兵衛殿は優しくしてくれる。一番辛くなるのは官兵衛殿なのに、何処にも、誰にも吐き出せずに全部全部胸の中に閉じ込めて一番苦しいのは官兵衛殿なのに、優しくしてくれる。だから、嬉しい。嬉しいけど、嫌だ」

一つ一つ、言葉を噛みしめるように淡々と呟く半兵衛のその思いに、嘘偽りがないことは明白で。死の淵に立ちながらもこれ程までに考えて貰えているとは思っていなかった。自分は、半兵衛が思うような人間ではないのだと、そう官兵衛は告げたかったがその思いすらも口に出すのは憚られた。それ程、半兵衛は真剣に考えてくれていた。
己のことなどより自分の身体を心配しろと一言いってはやりたいのだが、心配したところでもう気休めにしかならないことはお互いわかっていた。そんなことを言った日には本当に笑えなくなってしまう。 ただじっと、終始天井へと視線を一点集中していた半兵衛の視界が、俄かに歪み始める。

「半兵衛よ、私は幸せ者だった」

ぽつりと呟く、妙に悟りきり穏やかさを含んだその言葉はどんな顔をして言っているのか。
今の半兵衛には、視界が歪み過ぎていてよくわからない。眼を伝う滴は溢れだし目尻を伝って頬から顎へ、顎から首筋へ、次々と流れ落ち布団を濡らす。
ぼんやりとした視界の中、少しばかり首を傾け官兵衛の方を見てみたが終始一貫して変わらぬその姿勢のままで表情までは、よくわからなかった。
だがきっと、最後まで官兵衛は官兵衛のままなのだ。
そんな官兵衛が好きだった。

「あーあ、もう……これだから官兵衛殿は、嫌だよ」

諦めきったような、嬉しさを含んだような何とも言い難い口調でぽつりと呟いたその言葉に対する返答を求めて等はいない。恐らくこれだけで、官兵衛には伝わるのだ。
抱えていたものが、全てすっきりしたような解放感に溢れる感覚に陥る。全てが解決した訳ではなく、官兵衛にとっては半兵衛が危惧したとおりこれから様々なものが圧し掛かってくる。その杞憂すら打ち払うかのようなその言葉に、半兵衛は救われた。
半兵衛は官兵衛が思うよりもずっと、官兵衛は半兵衛が思うよりもずっと、お互いにお互いのことを想っていた。

「もう、暫く官兵衛殿と逢うのはいいや」
「そうか」
「そうだよ、俺泣いちゃったりなんかして恥ずかしいじゃん。だから、…またね」

そう言って笑う半兵衛の顔は涙に濡れて、眼を閉じた姿など本当にただ眠っている時のようだ。
また、明日来れば半兵衛は無理をして笑ってはいないかなど心配する必要は無くなったのだ。
それが幸か不幸かなど、自分が一番良く知っている。




120420
inserted by FC2 system