虚の花

「桜の花は、いつ咲くのかな」

官兵衛が思うに、竹中半兵衛と言う男は時折不可解な発言をする。
官兵衛からしてみれば、桜が咲くのは春だと赤子でもなければ誰でもわかりきっていることだ。それを、この男はまるで知らないとでもいうように呟く。その頭の中には、大凡官兵衛が思いつかないような奇抜な策さえ入っていると言うのに。

「春に咲く」
「春っていつさ。明日?来週?来月?」
「知るか。卿が、春だと思えばそれで春だ」

分かり切っていることを聞くなとでも言いたげに官兵衛が適当にあしらうと半兵衛は不満気な顔を見せた。そしてこの聞き方、上げ足を取っている風でもない。だがしかし、この国に生まれ四季を知らぬ訳がないと、官兵衛の中の固定観念がそう告げる。
策士である半兵衛が、季節を知らない訳が無いのだ。越後には冬には雪が降る、それ故上杉謙信が兵を進められないと言うこともわかっている筈だ。それを踏まえて策を練るのが仕事なのだから。

「じゃあ明日、明日から春ね」
「好きにしろ」

明日から、と半兵衛が言った所で花が開花する訳でもない。確かに春と言っても差し支えのない程には気温の上昇を肌で感じられるほどにはなったが、桜が咲くにはまだ早いだろう。それを伝えるべきか否か、答えは否。考える間も無いことだ。

「俺、桜の花が好きなんだ。官兵衛殿は桜の花、好き?」
「嫌いではない。しかし、桜は散るぞ」
「散るからいいんじゃない。枯れるより、散る方がいいよ。そっちの方が綺麗だ」

そう言って笑う半兵衛の顔色が良くないことを、官兵衛は知っている。
ただそれが何なのかは未だ知らないままだ。半兵衛は見た目の明るさに反して病弱だ、秀吉はそれをよく嘆いていた。一度風邪を引けば常人が治るそれよりも長くかかる。そういう己の身体を恨めしいと半兵衛が一度、漏らしたことがある。半兵衛が弱音を吐くなど珍しいことで、官兵衛はその時のことを良く覚えていた。
暑い夏の日の行軍中だ、半兵衛が体調不良を訴える間もなく崩れ落ちた。強い日の光にあたり過ぎたからなどではない、元々状態が芳しくなかったのだ。それと気付かれぬように半兵衛は振る舞い、官兵衛も気付いてはいなかった。心配する官兵衛をよそに、半兵衛がその時に言ったのが、それだった。

「枯れれば根本諸共枯れ逝くが、散れば残された木はどうなる」

ふと、呟く。
半兵衛が縁起でも無いことを言うからだ。
官兵衛の口からそのようなことが出ることが珍しいからなのか、半兵衛が一度驚いたような表情を見せた後小さく笑い声を上げた。その声を聞いた瞬間、官兵衛はしまったと言う様に表情を顰めたがそれを見た半兵衛が少しばかり考え込むように、それから未だ芽吹いてすらいない木の枝を見つめた。

「……大丈夫、桜の花が散った後には葉がつくよ。それにまた来年、花を咲かせに来るでしょう?」
「だが、それは今年と同じ花ではない」
「官兵衛殿は我儘だなぁ…そんな我儘な子に育てた覚えはないぞ」
「育てられた覚えがない」
「そうだね」

くるりくるりと宙を描くように人差指で円を描く。それからどう言えば良いのかとでも言いたそうに首を横に捻り浅く息を吐いた。全てをわかっている訳ではないにしろ、官兵衛がそれとなく気付いていることも、隠しきれないほど自分自身の顔色が悪くなっているのも半兵衛はわかっている。
少しばかりの沈黙の後、半兵衛がゆっくりと眠るかのように瞳を閉じる。それを横目で追いながら、官兵衛は我ながら幼稚な質問をしたと思った。己がそれを問われれば、なんと答えたのだろうかと考えてみても答えは出ない。
桜は散るから良いのだと言うが、それではあまりにも後腐れが無さ過ぎて、まるで忘れてしまえと言わんばかりだ。それが官兵衛には、面白くない。また一年経てば桜の季節がやってくる、そうすれば皆思い出しはするだろうが、また忘れて行く。
忘れては思い出し、思い出しては忘れて行く。

「卿は、一種の薬のようだな」
「俺?」
「忘れた頃にやってくる痛みを和らげようと、つい欲してしまう」
「…官兵衛殿が欲してくれるなら役得だな」

半兵衛が呟くと、思わず官兵衛の口から小さな笑い声が漏れる。普段笑うこと自体が少ない官兵衛が、声を出すなど滅多にないことで相当可笑しなことを言ったのかとバツが悪そうに半兵衛は頬を掻くが、どうやらそうではないらしい。
眉の無い、官兵衛の額が少しばかり上下し表情を変えた。まじまじとその様子を見られると官兵衛としてもやりづらいのだが、一つ咳を交える。

「なにさ」
「卿が、そう言うのではないかと思い、薬は服用しないようにしている」
「もーう、どうしてそう意地っ張りかなぁ。我慢しなくていいんだよ」
「それを卿が言うのか、直に我慢せねばならぬ時が来る」

半兵衛に大して遠慮と言うものを知らない官兵衛は、やがて来るそう遠くない未来のことをわかっている。隠している訳ではないが、隠し切れているとも思っていなかった半兵衛はただすまなそうに笑うことしか出来ず、言葉を探す代わりに再び空を見上げた。未だ木に蕾すらついていない場所に花が咲く筈が無い、ということぐらいはわかっているのだが見つめる視線の先に花が咲けば良いと思った。
不意に、突然腹の底から何かが込み上げてくる気がして、半兵衛が袖口を唇へとあてる。小さく咳き込むとそれから何もなかったかのように、ごくりと喉を鳴らした。官兵衛は半兵衛のその様子を心配し、少しばかり身を傾けて半兵衛を見る。官兵衛には見えないように掌の中を覗き込むようにする半兵衛の視線の先に何があるのか、ただそれだけが気になった。
官兵衛は己の嫌な予感が当たらなければいいとさえ思ったが、まるで宝物を隠す子供のような笑みを浮かべる半兵衛に杞憂であったのだろうかと安心しかけたその時、半兵衛の表情が帽子の影に隠れ、代わりに隠していた掌が広がった。

「見て、桜の花弁が落ちてきた」

そこには赤黒い血の痕。
ゆっくりと開かれた掌へと包む込むようにして触れ、右手の中指で血の痕を少しずつ、半兵衛の掌へと広げていく。半兵衛の掌の上で、まるで風に吹かれているかのように桜の花弁が舞っていく。
官兵衛の指が震え、その震えが背中まで伝わっていた。血を吐くことが、どんなことかを官兵衛は知っている。知っているからこそ時間が無いのではないかと、先程鳴らした喉の音は血を飲み込んだのではないのかと詮索してしまう。
しかし官兵衛の心配とは裏腹に、半兵衛はやけに落ち着いている。当然のことなれど、官兵衛が気付くずっと前から闘っていたのだ。

「春が迎えに来たんだよ」
「笑えん冗談だ」

そう言って掌へと触れる官兵衛の手を握り返して、己よりも大きいその身体を抱き寄せる。普段からまるで人間のそれではないかのように冷たかった官兵衛の身体が、半兵衛に触れることでひんやりとした冷たさを覚える。官兵衛の背を撫でるようにして触れる半兵衛の手は弱々しく、このまま消えていなくなりそうだとさえ思った。
半兵衛が咳き込む。
その度に官兵衛の衣服に赤い花弁が舞い、春が近づくのだと笑う彼に一言告げてやりたかった。桜の花が散るのは春の始まりであり、一種の終わりであるのだと。
その想いは言葉にならず、代わりに虚で飾られた桜の木が朽ちる前に春の訪れを切に願った。




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