このこどこのこ



このこどこのこ

此処最近、半兵衛は中国地方に詳しくなっていた。
つい先日、木津口川での戦を終えてから昵懇の仲になりつつある毛利元就の所へ通う日々が多くなっていたからだ。京にも沢山の書物があるが、此処には元就が集めた秘蔵とも言うべき書物が沢山あった。それだけでも魅力的だが、なによりああだこうだと言われなくて済むのが良い。
元就が煩く言うことはないし、他の者も元就の客人なので思うところはあっても何も言わない。それどころか茶菓子までついてくる。
半兵衛にとって元就の居城は安らぎの空間ですらあった。
しかし此処が安らぐと思っているのは己だけではないようで、時折立花宗茂がやってきた時などは最悪だ。どちらも譲らぬとばかりに居着いて、空気が悪くなる。そういう時に限って官兵衛が迎えに来るものだから、渋々引きさがる時などはなんだか負けた気分になってしまう。元就の居城に居るときに限っては、時々官兵衛ですら欝陶しくなる時があるのだが、それも半兵衛を想えばこそとわかっているから愛しい。
宗茂にも遭遇せず、官兵衛が迎えに来るまでの間は毛利邸は半兵衛の天下であったのだが、近頃新たな敵に出くわした。それは半兵衛よりも小さく、力も弱い。しかし半兵衛よりも素早く、鋭い爪を持っていた。
彼の名前はわからない。
わからないが、でっぷりとした体格は良い物を食べている証拠だろう。妙にふてぶてしい態度に、初めて逢ったときからそりが合わないとは思っていたがそれはあちらも同様だったらしい。半兵衛の顔を見るなり敵意を剥き出しにする姿はいっそ清々しく、だからと言って好意は抱かなかった。

「おい、そこ…俺の場所なんだけど」

半兵衛の指定席とも言える場所にでんと構えた彼に、不機嫌そうに声を掛けるが何も聞こえないとばかりにちらりと一瞥されただけで何も言われはしなかった。多少の怒りを覚えつつも、己の心を落ち着け取り敢えずと腰を降ろして以前読みかけだった書物へと手を掛ける。ぱらぱらと書を捲っていると視線を感じ、ふと顔を上げると彼が此方を見ていたが先程の仕返しとばかりに無視をした。
するとそこのこの居城の本来の持ち主である元就が茶菓子と共に現れた。しかし元就が来ても尚半兵衛は崩したままの姿勢で、顔だけを元就へと向けた。

「元就公、俺の場所取られちゃいました。なんかアイツいっつも不機嫌なんですけど、なんでかなぁ?俺別に悪いことしてないと思うんだけど」
「大殿を竹中殿に取られたと思っているのではないですか」

元就の後ろについてきた輝元が人懐っこい笑顔を向けたまま告げると、半兵衛は怪訝そうに眉根を寄せてうーん、と唸りだした。確かにそれも一理あるのかもしれないが、半兵衛にその気はないのでやはり不可解だ。茶を置いて去っていく輝元も、やはり好かれてはいないようで彼がギロリと視線を向けるといち早く退散していった。
官兵衛が此処に居れば確実に窘められるであろうが、鬼の居ぬ間になんとやらとばかりに半兵衛は姿勢を崩したまま茶菓子に手を伸ばす。

「俺、元就公も好きだけど官兵衛殿が一番好きなんだけどなぁ」
「それはよくわかっているけど、彼には伝わらないんじゃないかな?君だって、彼の横に知らない人がずっと居たら取られた気分にならないかい?」
「俺、取られないし」

半兵衛の返答に、大した自信だと元就が笑みを浮かべる。にゃあ、と彼の鳴き声と共に首につけた鈴がチリンチリンと可愛らしい音を立て、素早く元就の膝の上へ座した。その姿を半ば冷めたような眼で追いながら、半兵衛はじっと彼――猫を見た。
それから口にしていた茶菓子をゆっくりと噛み、茶にて喉を潤す。相手が元就であれば確かに何も感じはしないのだが、元就の位置を官兵衛に置き換えてみると自然と嫉妬心が湧きおこってくる。
はぁ、と一度わざとらしいぐらいの盛大な溜息をついてガクリと肩を落とすと、開いていた本を閉じた。それから元就の膝の上に座る猫へと視線を合わせるようにやや屈んで、ゆっくりとその距離を詰めたその時、室の襖が開いた。

「あ、官兵衛殿」
「…………卿は他所で何をしているのだ」
「やぁ官兵衛、いらっしゃい」

奥へ通されたと思えば四つん這い状態で元就、基猫へと近寄る半兵衛を見て官兵衛はその表情を顰めた。己の居城ならばまだしも、降伏した相手の城とは言えあまりにも無防備だ。だが元就から声を掛けられれば深々と会釈をした。
実の所官兵衛は、この毛利元就と言う男のことが苦手であった。だからこそ、あまり来たくはないのだが半兵衛を迎えに行く役目は官兵衛以外為し得ない。なんといってもこの、何も考えていなさそうでありながら全てを見透かすような瞳が気に喰わない。

「半兵衛、帰るぞ」
「えー、ちょっと待って待って。官兵衛殿ちょっとこっちに来て」

室の外に立ったままの官兵衛を手招きして呼び寄せようとするが、官兵衛は頑として動かない。半兵衛が何をしようとしているのかわからないが、半兵衛を動かすよりは官兵衛を動かした方が早い。そう判断した元就が官兵衛へと視線を向け、おいでと呼び寄せた。官兵衛としてはそこまで足を踏み入れる気はなかったのだが、両人に来いと言われればそれが此処を立ち去るに一番早い方法だと理解した。
中へ、と言っても一歩踏み入れ襖を閉める。それで官兵衛の侵入は完了だ。無論半兵衛がそれだけで許す筈もなく、そう長くは無い足を命一杯伸ばして官兵衛の足を突く。ならば少し移動しろとも思ったが、官兵衛は敢えて何も言わなかった。

「無礼だぞ半兵衛」
「いいの!それよりほら、もっとこっち来て」
「なんなのだ」

のそのそと、至極面倒そうに半兵衛の傍へと寄ると足を引かれ、官兵衛は盛大に尻持ちをついた。室内に響き渡るその痛々しい音に唯一反応を示さない半兵衛は、ここぞとばかりに官兵衛の肩を抱いて己の方へと引き寄せるとニッと笑みを浮かべた。
しかし官兵衛としては呼ばれたかと思えば足を引かれ、あまつ尻を打った反動が腰に迄響き半兵衛に付き合っていられるほどの余裕もなく、ただ痛みに何も言えなくなっていた。

「ほら、俺と、官兵衛殿は仲良し。それで、お前と元就公は仲良し。これでいいだろう?」
「やめんか」
「だーめ、今コイツに教え込んでるの。これは俺の死活問題に発生する恐れがあるから協力してよ」
「大袈裟だなぁ、半兵衛は。ほら、官兵衛が困っているよ」

そう、呑気な口調で猫の背を撫でる元就の膝にいる相手がソレだと気付くと、官兵衛にはもう溜息すら出なかった。半兵衛も、言葉では止めようとしている元就ですらも、この状況を楽しんでいた。
天才が二人揃えば不可能は殆ど無い。半兵衛が以前口にしていた言葉であるが、それは官兵衛と半兵衛のことを指していた。だが今、官兵衛はその言葉を半兵衛と元就に見た。所詮官兵衛一人が抗ったところでこの二人の力押しには勝てる気がしない。
これでもかと言うほど頬と頬を密着した成人男性の姿ほど滑稽なものはないだろう。しかもそれを見せている相手は、人ではない。猫は不思議そうな顔をしてじっと官兵衛と半兵衛を見ていた。
暫くじっとしていた猫がにゃあ、と小さく鳴いて此方へ歩み寄ってくる。そのまま官兵衛の傍へと来て丸くなったものだから、今度は半兵衛が黙ってはいない。今まで大人しくしていた分の仕返しとばかりに、でっぷりと太った猫の首の肉を掴み上げ己の目線の高さまで上げた。

「おい、そこは俺のだって今言っただろ」
「ははははは、すっかり嫌われてしまったね半兵衛」
「………意味がわからん」

半兵衛に対して対抗意識を燃やす猫の姿に、元就は可笑しそうに笑い声を上げ苦しいとばかりにうっすらと浮かんだ涙を指先で拭った。案の定官兵衛はこの状況についていけずに、ただ猫と半兵衛とを見比べていたが、どう見ても歳を弁えず半兵衛が猫に喧嘩を吹っ掛けているようにしか見えない。猫の短い手足が半兵衛を引っかこうと宙を蹴る度に、ざまぁみろ、とばかりに笑う半兵衛がまた幼く見える。
この攻防がいつまで続くのか、放っておけばどちらかが根を上げるまで続くであろう。しかも一人は、言葉を発さない。叩きつけられた身体の節々が少なからず痛むのだが、官兵衛はそれを悟られぬようにゆっくりと立ち上がり元就へと一礼した。

「私はこれにて」
「折角だからゆっくりしていけばいいのに、官兵衛はせっかちだなぁ。それとも、私はまだ君に信用されていないのかな?」
「……半兵衛よ、帰るぞ」

元就の問いには答えずに官兵衛が半兵衛へと声を掛ける。そのまま官兵衛は振り返りもせずに元就の室を後にした。その姿に慌てたのは半兵衛で、掴んでいた猫を離すと慌てて立ち上がり軽く衣服を掃った。それから急いで官兵衛の後を追う様に室を出て行くが、すぐに中途半端に開いた襖の間からひょっこりと顔を覗かせ、人懐っこそうな笑みを浮かべる。

「元就公、また来るね。それじゃ。待ってよ官兵衛殿〜!」

軽く掌を開いて握りを繰り返し別れの挨拶へとかえる。元就も緩く手を振って半兵衛を見送ると、ドタドタと人の居城に居る客人とは思えぬ程けたたましい音が廊下に響いていた。官兵衛と半兵衛の居なくなったいつもの部屋は妙に広く感じられ、猫も少しばかり挙動不審になっている。
その猫をおいでと呼び寄せ、膝の上へと置くと生温かい猫の体温を感じ妙に癒された気分になる。ゆっくりとその身体を撫でるとゴロゴロと甘えるような仕草をする猫は誰かを彷彿させた。

「同族嫌悪、って奴なのかな君達は」

ぽつり、呟いた所で返事をする者はいないのだが、代わりにとばかりにタイミング良くにゃあと鳴く猫は、きっと何も考えてはいない。




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