忘れてしまいなさい、私のことなんて



忘れてしまいなさい、私のことなんて

黒田孝高殿
諱から始まるその手紙は嫌になるほど簡潔だ。孝高等と口にしたことは一度も無い癖に、こうして抗議をすることの出来ない時に使うなど、なんと狡猾かと思った。



官兵衛が見るも無惨な姿で有岡城から救出された。顔は醜く腐り果て、頭髪もざんばら。右足に至っては棒をつかねば歩くことすら困難になっていた。
それでも、官兵衛は生きていた。
秀吉は官兵衛の生還を喜んだが、それと同時に二つの訃報を告げねばならない使命を背負っている。しかもそのうちの一つには自分自身関わっている―松寿丸のことだ。官兵衛はこの訃報を聞けばどうなるのだろうかとすら思っていたのだが、心配は杞憂に終わった。
官兵衛は顔色一つ、皮膚の一部も動かさずに「左様で御座いますか」とだけ言ったのだ。胸の内で何か思う所はあったのかもしれない、だが何一つ外に出そうとしない官兵衛に秀吉は哀れみと恐怖を感じた。
その秀吉との対面後、半兵衛の部下だった男から官兵衛へと宛てた文を貰った。
確かに見覚えのある顔ではあったが、半兵衛の字とは思えないその文を訝し気に見つめた後、その男へと一礼し懐へと文を収める。足が不自由なだけに歩いて帰ろうにも耐え切れず官兵衛は籠を呼び、胸元へとしまった文を服の上から一度、撫でた。




邸に着き居住まいを正し、数年振りのまともな食を取り、身を清めた。漸く俗世へと戻ってきたのだと、一息ついた後官兵衛は受け取った手紙の存在を思い出す。否、忘れていた訳ではない。忘れている振りをしていた。死した者からの手紙等、大体の内容は決まっているのだ。
部屋へと戻ると着替えの際に文机の上へと置いた手紙は、開けてもいない筈の襖から風でも入ったのか、文机のすぐ傍に落ちていた。

「卿は亡くなったと聞いたが?」

誰に話し掛けるでもなく、官兵衛が呟く。無論、返事が返ってくる訳も無く官兵衛は諦めたように文を開いていく。一つ、また一つと几帳面な官兵衛らしく丁寧に開いていくと、やはりそこには本当に半兵衛の字かと疑いたくなるような力の無い字が並んでいた。半兵衛の字で間違いが無いことはわかっているのだが、生前の彼の字を知っているがだけに最期の時を思うと居た堪れない気持ちになった。
『黒田孝高殿』
そう、呼ばれたことなど一度もない。
だが確かに最初の一文にはそう記されていて、敢えてその名で記すことにどれ程の意味があるのか、官兵衛は身を持って感じていた。本人に直接訴えかけられない場所で呼ぶなど、確信犯であると同時に卑怯だ。
例えば呼ばれたことなど一度も無い名前で驚いただとか、半兵衛が呼ぶから嬉しかっただとか、何処となく照れ臭くなっただとか、そのすぐ後にどうしようもない虚無感に襲われただとか。色々と言いたいことはあるのだが、何一つ、半兵衛には直接伝えられない。
宛名を読んだだけで、こんなにも沢山の感情が溢れてくる。文を全て読み終えても、平静さを保っていられるだけの自信がなかった。一度文から視線を上げて、天井を仰ぎ見る。身体中の水分が外に溢れることの無いよう、鼻から大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。

半兵衛の手紙の内容はこうだった。
約束を破って悪かったと言うこと、松寿丸の身柄は匿っていて無事だと言うこと、出来れば嫡男吉助に目をかけてやって欲しいと言うこと、官兵衛へ宛てた最期の手紙が遺言書では嫌なので恋文にすると言うこと。それから後には第一印象やら官兵衛のことが本当に好きだったと言うような官兵衛についてのことが綴られていた。
手紙の最後には、また、一度も言われたことのない言葉が並んでいた。
その言葉を見た瞬間、官兵衛の中に押し止めていた何かが弾け、頬を伝う涙が落ち、文を濡らした。紙を濡らした箇所からじわりと広がって文字を滲ませていく。その様子に慌て、官兵衛は漸く自分の眼から零れた涙だと気が付いた。
涙を流すなど遠い昔のことで、何ヶ月、否年単位で数えた方が正確な程、官兵衛は涙を流したことがない。涙が溢れることはあっても、落ちることは無いのだ。いつも、零れ落ちる前にせき止めてしまう。それは官兵衛の意地でもあり、無意識の行動であった。

「…卿は、愚か者だ。死の間際には己の家のことを考えよ、私のことなど忘れてしまえば良かったのだ。…生きているか死んでいるかも定かではない。そうであったであろう」

文を持つ手が俄かに震えだす。
考えれば考えるほど竹中半兵衛という男は、偉大な男であったと思う。その偉大な男が、死を間際にして己に全信頼を置いてくれていたことに官兵衛は改めて感動すると共に、居た堪れない気持ちになった。
もし仮に、己と半兵衛の立場が逆であったならば、官兵衛はこのような行動をとれるのかと問われれば答えは否だ。それを易々とやってのけるどころか、裏切ったか、はたまた死んだとさえ思われていた男の生存を信じ、事後のことを託すなどどう考えても正気の沙汰ではない。それどころか遺言書ではなく、恋文にしてしまうところがまた、彼らしい。
一度も貰ったことのない恋文に、一度も呼ばれたことの無い呼び名で呼ばれ、一度も告げられることの無かった言葉を聞いた。 それに対して返事をするならば、三途の川を渡らねばならない。だが今は未だ渡る訳にはいかないのだ。事後を、託されている。そして官兵衛自身未だ此処で果てる訳にはいかなかった。
文を握り締めるようにして、左胸を抑える。
胸が痛い、胸が痛い。
声を出そうとするのだが、それは言葉にならず吐きだす息と共に消えていく。
瞼が、唇が、身体が震える。
喪うというものはこんなにも辛いものであっただろうかと考え、己の半身を喪ったのだと思い直した。半身がそこに無いが故に、こんなにも身体中のあちらこちらが痛みに打ち震える。

「私とて、卿に伝えていない言葉が、山程ある。私は、それを伝えにいく術を持ち合わせていない。卿はそうやっていつも…私の上をいく。……答えを欲すならばそこで待っていれば良い。私は今暫く、そちらに向かう予定は無い。最後の悪あがきと思い、次こそ、待っていろ」

顔を上げゆっくりと手を伸ばし縁側の襖を開く。眩しいぐらいの日の光が差し込んで来て、未だ俗世の光に慣れ切らない官兵衛の瞳を痛いぐらいに照らし出す。その光をじっと見上げ、小さく、呟くように、喉奥から声を絞り出すようにして官兵衛が漏らす。震えていた言葉は次第に強みを増し、普段の官兵衛らしい口調になっている。
それから只百八十秒、黙って泣いた。















 面と向かって一度ぐらい、愛しているって言っておけば良かった。
 俺は官兵衛殿に恋をしていました、愛していました。
 官兵衛殿は俺と居て幸せだった?俺は幸せだったよ、凄く。
 本当に、好きだったよ。愛していたよ。
 あいしているよ。





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