知らないことを、知ることを



知らないことを、知ることを

用があって半兵衛の元へと出向いた時のことだった。
天気は良好、いつもならばのんびりと縁側で昼寝でもしている頃であろう。その半兵衛が、官兵衛に逢いたくないと言う。
官兵衛からしてみれば、いつも己の都合などお構いなしにやってくる男のどの口が言うかとすら思うのだが、今日は私用ではなく公的な用事で来たので幾ら半兵衛が嫌だと言おうが逢う気でいた。
使用人たちは困ると言って官兵衛を押し留めようとするのだが、官兵衛を簡単に止められる訳もなくその醸し出す不機嫌のオーラと鋭い視線にすごすごと道を譲ってしまう。

「半兵衛、私だ。用があってきた」
「げっ、官兵衛殿……お、俺今日は具合悪いから、人に逢いたい気分じゃないんだよね」
「ならば私を犬か猫だと思えばいい」

そう言って閉ざされた襖を開け広げると、具合が悪いと言った割には布団も敷かれず、半兵衛は平服のままでいる。それどころか本当に開けられたとばかりに驚き、目に見てわかる誤魔化すような笑みを浮かべていた。仮病だとわかってはいたが、こうも隠す気が無いと溜息しか出て来ない。何か理由があるのだろうと思い、用を済ませた後すぐに退散しようとすぐさま持参した書簡を差し出した。その時に、違和感に気がついた。

「その傷はどうした」

明らかに鋭い爪か何かで引っかかれた痕が半兵衛の頬にくっきりと残っていた。一昨日顔を合わせた時にはそのようなもの、見受けられなかったので恐らく昨日付けたのであろう。等間隔に走る爪痕が誰のものなのか、など気になりはしなかった。半兵衛とて男だ、それなりに女性との関係を持つが故にトラブルにも巻き込まれるだろう。
一方の半兵衛はというと、隠すのが遅れたとばかりに爪痕を隠すよう己の頬へと掌をあてるが、じっとその掌を見つめていた官兵衛の視線が反らされるとあからさまに安堵したような表情を浮かべた。それは官兵衛が凝視した後、視線を反らすことによって興味が失せたと示してくれた為だ。

「ちょっとイザコザに巻き込まれただけだから何でもないよ。それより俺に用事って何?俺が今日は官兵衛殿に逢いたくないって言ってるのに、押し通しちゃうような大事な用事なんでしょ。まぁ、秀吉様絡みだろうけど」
「わかっているならば話は早い」

早く読め、そう促すように視線を向ける官兵衛の眼にはやはり、半兵衛の引っかき傷が気になってしまう。本人に言えばふてくされるのだろうが、白い肌だ。赤い傷が妙に映えてみえるのだから仕方がない。
突然、書簡へと視線を落としていた半兵衛が顔を上げると、官兵衛はすっと視線を反らしたが一間歩遅かった。無関心を装いたかったのだが、それは上手く出来ただろうかと頭の片隅でそう考えては、くだらないと一人ごちた。 半兵衛は気付いていたが見ない振りをして、再び書簡へと視線を落とすのだが先程の官兵衛の表情を思い出すだけで漏れそうになる笑みを必死に堪えた。

『目尻が少し上がってた、瞳が少しだけ開いていた』

常人からしてみれば官兵衛のこの些細な反応など、変化の一つにもなりはしないのだが長く共に居る事によって半兵衛にはこの変化が楽しみの一つになっていた。だから時々、こうして官兵衛の反応を見ては気付かない振りをして笑っている。
秀吉からの書簡を読み終えると、今度は官兵衛が驚かないようにゆっくりと閉じて行く。こうすることによって顔を上げることを相手に察知させ、先程のはわざとなのだと教え込む。官兵衛は半兵衛のそういうところが面白いと思っていた。

「ねぇ、これって俺の意思を無下にしてまで今日中に伝えなきゃダメなことなの?」
「卿のことだ。その顔では明日も明後日も、逢えはせんだろう」
「なんだ、読まれてた?でも官兵衛殿以外なら、別に逢うことは構わなかったんだけど。なーんで書簡届けるだけのおつかいが官兵衛殿の役かなぁ。もっとこう、暇な奴なんて一杯いるでしょ?官兵衛殿はただでさえ働き者なんだから少しは休まないと駄目なのに。秀吉様が官兵衛殿をキリキリ働かせるからこうして顔合わせなきゃなんなくなるしさー、もう最悪」

心底ふてくされたようにぐちぐちと文句を垂れる半兵衛を、官兵衛は何も言わずに見ていた。普通、此処まで言われれば何故と言った疑問も浮かんでくるものなのだが、不思議と官兵衛にはその気持ちが湧き起こらない。『逢いたくない』『最悪』そう言われても、それは全て別の言葉で昇華されていくのだ。
半兵衛が官兵衛に逢いたくない理由も、大凡ではあるが想像がついている。そして官兵衛はもう既に、その話題に触れ、それ故に半兵衛は腹を括っていた。しかし官兵衛と言う男はこういうところが妙な男で、普通の者ならば冗談でさらりと言ってのけることを言ってもいいものなのかと本気で悩んでしまうところにある。
そして今日の官兵衛はその話題に触れないことにした。

「用は済んだ、私は行く」
「ねぇ、官兵衛殿誤解してるでしょ」
「卿の言いたい事が理解しかねる」

部屋を出ようと背を向け襖に手を掛けた瞬間に、いつもよりも少しばかり落ちた声のトーンで半兵衛が官兵衛を引きとめる。そのまま行ってしまえばいいのだとわかってはいたのだが、襖へと触れた手がピタリと止まりそれ以上動かなかった。
そんな官兵衛の様子を見て一歩、また一歩と半兵衛が近寄っていく。するり、官兵衛の腰から腹へ掛けて手を回しその手を前で組んだまま、官兵衛の衣服へと鼻を擦り寄せるようにしてくっつけ、クンと匂いを嗅ぐ。

「女にやられたと思った?」
「私には関係の無いことだ」
「見てた癖に」
「目立つ所にあれば誰でも見る」
「そうだけど…でも、女じゃないよ。官兵衛殿に勘違いされるのは嫌だ」

そのまま官兵衛の身体を強く抱き締めて、背へと額をつけた。半兵衛が触れる箇所から感じる人の体温を、体温なのだと認識すると官兵衛の身体にゾクリと冷たいものが走る。女でなければいいという話しでもなく『そういったこと』に至る相手がいるのだと思うと、無関心を装おうとする自分自身が一番気にしているのだと自覚して自己嫌悪に陥る。
回される半兵衛の手へゆっくりと触れ、順番に解いていく。ゆっくりと丁寧に、それこそ壊れ物を扱うかの如く慎重に。解いていくと同時に半兵衛との間に壁を作って、感情を遮断していく。

「官兵衛殿、俺の話聞いてる?」
「聞かねばならぬ理由が無い」

やや怒気の籠り始める半兵衛の口調も気にせず、官兵衛はそれすらをも拒絶する。官兵衛は元来、無意識に他者との壁を作ってきたのだが何故か半兵衛にだけは、その壁が元々薄かったように感じる。他者との隔たりは己自身が招いている事だと言う事もわかってはいたのだが、それでいいと思っていた。それが何故か、半兵衛にだけはそうは思えない。
元々ある壁が薄過ぎた故に、このような些細なことで己の感情を振り回されるのが酷く苦痛で、官兵衛は苦々しそうに表情を歪めたが半兵衛の手を解き終えその手を離そうとした瞬間、翻すように握り返された。半兵衛の力は強く、官兵衛がどんなに手を振り払おうにも体勢が不利だ。背中越しに感じる視線が痛いほど突き刺さり、官兵衛は一度息をつくと抵抗することを諦めた。

「人の話を聞かないで、そうやって一人で思い込んで、そんで一人で抱え込むの、官兵衛殿の悪い癖だよ。しかもその理由が俺自身のどーうでもいい話なんて、俺が嫌じゃん」
「私には関係無」
「あるの!いいから黙って、そこに座りなさい」

官兵衛の声を遮って、半兵衛が否定する。それから少しの間をおいて、掴んだ手を離すと官兵衛の腰を下ろさせるように肩へと手を掛け体重を乗せた。官兵衛はと言うとこれ以上聞きたいこともないのだが、何処かで聞いたことのあるような逆らえぬその口調に渋々と腰を下ろす。背を向けたまま腰を下ろすとまた、窘められて正座のまま半兵衛の前に座す己の姿に、何かが可笑しいと思ったのだが敢えて口は挟まなかった。
畳みの上へと座す官兵衛とは対称的に立ったままの半兵衛の方が、視線が高い。いつも見下ろす側の官兵衛からしてみれば、半兵衛を見上げるなどそう無いことなのだが、見上げれば見上げるほど半兵衛の頬に残った傷痕が目に入り官兵衛は眼を伏せた。

「人の話を聞くときは眼を見なさい!…って、言われなかった?おねね様に」

人差指を立てて小さな子供を叱るような仕草をした後、半兵衛が可笑しそうに喉奥で噛みしめるような笑い声を洩らし、その言葉で先程感じた『逆らえぬ口調』を思い出した。秀吉の妻のねねだ。通りで自身の諦めが早かった訳だと一人ごちては、先程何故半兵衛が笑ったのかわかった気がした。
幾ら発言に遠慮を見せない官兵衛であっても、流石に秀吉の妻には逆らえない。ただでさえ秀吉の妻、という肩書を持っている女性であるのに、その押しの強さと言えば官兵衛にさえ口を挟む隙を与えない程なのだ。そうしていつも気負けしてしまう。そのことを思い出し、官兵衛はもう一度息をついた。それからゆっくりと顔を上げ、半兵衛の顔をまじまじと見る。

「手短に話せ」
「猫」

官兵衛が先を促すと、その声に被せるようにして半兵衛は短く答えた。それが答えだとは思わずに、官兵衛は先があるのかと待ったがその続きは告げられず、半兵衛も半兵衛で官兵衛が何かを言うと思ったので黙っていたが、その短い沈黙に耐えきれず両手を放りだすようにしてぶらぶらと上下へ振る。
それから少しばかり屈んで官兵衛の視線に近い位置で止まり、己の頬についた赤い爪痕を何度か叩いた後、主張するように、爪先で抉るようになぞっていった。

「だーかーら、猫にやられたの」
「……それを信じろと言うのか」
「信じろも何も、事実だし。だから言ったじゃん、どうでもいいことだって。勝手に脚色したのは官兵衛殿でしょ?大体さぁ、俺女に感けてる程暇じゃないし。それなら官兵衛殿と話してる方が有意義だし」

いやだいやだ、とわざとらしく肩を竦めて困った様な表情を浮かべる半兵衛に対し、官兵衛は何も言えずに押し黙っている。自分自身早とちりだとは思わないが、半兵衛も紛らわしいことをしてくれると思った。ならば最初からもったいぶらずに言えばいいのだと、言おうと思ったのだが官兵衛自身が聞く耳を持たなかったのだから倍以上にして返されるのは目に見えている。
このままあっさりと認めてしまうのも些か癪ではあるのだが、まさかの答えに官兵衛の中に焦りが生じる。戦中とて焦ることなど少ない官兵衛が、である。考えるように指先を額にあて、そのまま前髪へと滑らせぐしゃりと髪を握り締め、なけなしの言葉を吐き捨てた。

「卿の、性格が悪いから嫌われるのだ」
「じゃあ俺と性格の合う官兵衛殿だって十分性格悪いよ」
「…私は性格が悪いのではない、趣味が悪いのだ」
「ちょ、…何それ。さり気に酷くない?素直に嫉妬したって言おうよ、官兵衛殿」
「誰が猫に」
「女だと思った癖に」

徐々に徐々に二人の顔の距離が近づいて行く。
先程までの刺々しい口調とは裏腹に、お互いテンポ良く次々と言葉が出てき悪態が尽きない。本当に馬鹿らしいことで、よくよく近くで見てみれば人間の爪よりも鋭く、爪と爪との間も狭い。しっかりと観察すればそれが人間の物ではないとわかる代物だけに、官兵衛は些か後悔した。
これで一つ、半兵衛に弱みを握られた。 そう思う事は少し可笑しなことなのだろうが、このまま流されるのも癪なので、唇が触れる寸前に半兵衛の顔を傾け無理矢理傷を舐めてやった。




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