笑わないで

「官兵衛殿って、秀吉様に口説かれて軍師になったんだって?」
「は?」

有岡城に幽閉されていた官兵衛が無事に戻り、秀吉に謁見を終え暫く経ったときのことだった。
久方振りに逢う半兵衛の第一声がそれであった。
半兵衛には色々と伝えたいことがあったのだが、先に切り出した半兵衛の言い分がそれなものだから官兵衛は思わず聞き返してしまう。その間半兵衛は、官兵衛の返事を待つようにじっとその瞳を見つめていたが、幾ら見つめた所で官兵衛の思考は追いついていない。
常日頃から表情を露わにする事が少ない官兵衛であるが、この問いかけには流石に驚いたようで何度か瞬きを繰り返し、いつもよりも数ミリ、目が開いていた。数秒の間のうち、官兵衛の反応に少なからず何かを察した半兵衛は、半ば強引に官兵衛の手を取り、そのままその大きな身体を引くように邸へと向かう。道中人通りを通ったがその際にもきっちりと、手は握ったままだ。

「半兵衛、手を」
「黙って」

官兵衛の足は、長い幽閉生活で筋肉が硬直し未だ自由に動くまで完治していない。しかし歩くのに不都合がある訳ではなく、むしろこうして引っ張られ半兵衛の速度に合わせて手を引かれる方が歩きづらく、それを伝えようとしたがほんの四文字で官兵衛は口を噤まざるをえなかった。
機嫌が悪い時の半兵衛に口を挟むのは、愚策だ。
しかし、何故こうも機嫌が悪いのかは官兵衛にはわからない。官兵衛は今まで幽閉されていた身で、半兵衛とはそれ程―半兵衛が有岡城へ侵入してきた時以外はろくに逢ってもいなかったというのに。たまたま戻って来た日に機嫌が悪かったのか、ならばただの八つあたりだと思いもしたがどうやら先の一言に理由があるらしい、という事だけは何となくわかった。




何処へ行くのかと思えば連れて来られたのは半兵衛の邸であったが、相変わらずゆっくりするというような感じではない半兵衛の気迫に官兵衛は黙ってついて行った。時折足を引きずるようにして歩くと、一瞬歩行速度が緩む。妙な気遣いをする男だと思ったが、何も言わず放っておいた。
正門から入りそのまま庭を突っ切るようにして進むと半兵衛の部屋への最短ルートだ。半兵衛はそのまま一言も喋らずに脱ぎ捨てるようにして高下駄を脱ぐと、不意に手を放す。ずっと握りしめていたものだから、離れた箇所へ空気が触れると妙に清々しい感じがしたのだが、すぐに靴を脱ぐために半兵衛が気を遣ったのだと気付いた。やはり、妙な気遣いをする男だと思った。
官兵衛は縁側へと腰をおろしてゆっくりと靴を脱ぐ。右足は未だ硬直しており、些か手間取ったが半兵衛はじっと、官兵衛を見下ろし靴を脱ぎ終えると再び手を差し出す。
握れ、と言う事らしい。
部屋はすぐそこ、握り返す必要等少しもないのだが、官兵衛は手を差し出した。何故か、と問われるとそれは自分にもわからない。再び手を握り合った状態で、半兵衛の部屋へと入る。そこはいつも官兵衛が見知っている部屋ではないようにきちんと整頓され、また、呆けてしまった。

「部屋を変えたのか」
「俺の部屋。官兵衛殿がいなかったから、散らかしたって官兵衛殿を呼ぶ口実にならないでしょ」

さらりと、そう述べる半兵衛の言葉に何か見逃してはいけない箇所があった気がするのだが、官兵衛は敢えてそれを聞き流した。此処でまた変に突っ込んでは半兵衛の気を損ねると思ったからだ。長年半兵衛と付き合ってきたことによって、少なからず感情の起伏の仕方がわかり始めていた。半兵衛の起伏は小さく、小さいが故に勉強になる。

「それで、何故私は此処にいるのだ」
「それなんだけどさぁ」

回りくどく聞くのも何かと、官兵衛が早速切り出す。すると半兵衛はいつもと変わらぬ調子で、だが語尾に多少の怒気を含めて声を発すと、握りしめていた官兵衛の手へと若干の力を込め、まるで羅針盤を振り回すかのように官兵衛の身体をぐるりと宙に上げ、床へと叩きつけた。
ドンッと畳みと官兵衛の身体とが接触した瞬間、鈍く大きな音が室内に響き渡る。だが、誰もこの異変に気付いていないのか、はたまた気付いていない振りをしているのか、誰一人半兵衛の元へと来る使用人や家来はいなかった。
叩きつけられた瞬間こそ、何がなんだかわからず痛みを感じなかった官兵衛の身体に、数秒遅れてジンとした痛みが徐々に広がっていく。背中から腰にかけての痛みが特に激しく、脳がぐるりと回り上手く起き上がることも出来ずその場に蹲る。
その身体を無理矢理開いて、馬乗りになるようにして半兵衛が官兵衛の腹部へと腰を下ろした。その表情は戦場に向かうような時の表情で、目が、笑っていない。
なんだ、そう思う前に腹部へと鈍い痛みが突き刺さるように襲いかかり、反動で胃液を吐きそうになった。喉元まで込み上げた酸味を無理矢理飲み込む。しかし一度来た反動を押し返すことは難しく、嘔吐こそしなかったものの吐き気を催した。その吐き気を我慢しようとすればするほど目尻へと涙が薄らと浮かぶのだが、それが零れ落ちる前に一度強く目を瞑る。

「…ッ、は……何をする」
「何って…官兵衛殿は本当に俺を煽るのが上手いなぁ…って、思って。官兵衛殿は…、秀吉様のことが好きなの?」
「何を…」
「否定しないんだ、じゃあやっぱり、好きなの?そうなの?」

ただでさえ解放され世間の空気にも慣れ切っていない。それどころか牢の中にいる間は最初の内こそ思考を巡らせていたが、月日が経つにつれ官兵衛は前程思考することが無くなった。故に、今の官兵衛は前ほど切り替えが早くは無い。
それなのに、である。半兵衛により意味のわからない言いがかりをつけられ、畳みかけるように言葉を並べられ、言葉に詰まると断定するかのように拳を振り落とされる。食事もろくに取らずまずは、と秀吉に謁見した為胃の中は空であったが、村重の好意から監禁中も食事は運ばれていたが籠城中と言う事もあってそれ程良いものではなかった。故に官兵衛の身体は以前にも増して痩せ細っており、殴ったところで半兵衛の拳にはそれ程感触が残らない。
女人のような、子供のような白く細い拳を一度開いて何度か握って見せる半兵衛の行動が、官兵衛には未だに理解が出来ない。半兵衛のことだ、何か理由があってそのような行動に出ているのだろうとは思ったのだが、頭の片隅で果たしてそうだろうかと思考する。だが考えようとすればその拳が再び腹部を襲い、抉られるようなその痛みに一瞬意識を失った。
殴られては一瞬意識を飛ばし、意識を取り戻しては殴られを何度繰り返したであろうか。官兵衛の腹部は妙な形に変形する程殴られ、堪えていた吐き気にも耐えきれず何度か胃液を吐きだしたが、制止の声は一切出さなかった。声すら、時折呼吸に紛れて漏らすだけで大した声は出さない。

「………」
「なんで、何も言わないの。否定してよ、違うんだって、そうじゃないって言ってよ!それだけでいいのに、そうしたら安心出来るのに。なんで何も言ってくれないの」
「…、っ……ァ、ハァ………卿が、言っている意味が…、わからん」

喋るたびにズキズキと腹部が痛み、嘔吐感が込み上げてくる。口元を掌で覆うことによって、若干くぐもった様な声を出したがそれでも半兵衛には聞こえている筈だ。いっそのこと意識を飛ばしてしまいたいとさえ思ったが、官兵衛の中の理性がそれをさせなかった。
半兵衛のすることにはいつも、何かしら意味がある。
その理由を探るまでは、簡単に放棄できない。これはある種官兵衛の悪い意味での好奇心だ。己の欲を、満たしたいが為の、好奇心。

「…秀吉様が、官兵衛殿に笑顔をくれてやるから軍師に…って、言ってた」
「……」
「本当?」

なんだそれは、口を突きそうになった言葉を飲み込むと苦々しい味がした。張りつめていた緊張感が、呆れに変わっていく音を官兵衛は自分の中で確かに感じる。
秀吉と出会った時の事はおぼろげながら記憶にはある。まさかあの頃は、この秀吉が天下に近い男とは思ってはいなかったのだが確かにそのような事を言われた気がしなくもない。

『官兵衛。お前の御蔭で戦に勝てた。なぁ官兵衛、わしの軍師にならんか。わしは皆が笑って暮らせる世を作る。その為には官兵衛、お前の才と笑顔が必要だ』
『はぁ…』
『よし、決まりじゃな!わしが官兵衛に笑顔をくれてやるんさ。官兵衛のこのカッチカチの顔が笑顔になりゃ、そん時が天下泰平さ』

思い返すようにして脳裏を過ぎる秀吉との会話の一字一句を覚えている訳ではないが、確かにその場面は思い起こすことが出来る。官兵衛の中で忘れかけていたことが、秀吉にとっては重要であったと思うと些か胸の奥から花が開くようなじんわりとした嬉しさが込み上げ、身体を走る痛みも何処かへ置いてきたかのように微かに、口端が上がる。

「あぁ…そういえば、そのようなこともあったな、…忘れていた」
「なん、だよ…それ。なんで、ずるい……俺とは約束なんてしてくれないくせに。なんで秀吉様とはするんだよ、なんで…よりにもよって笑顔をくれてやる約束なんだよ、なんで」

そんなことを言っていたのか、相変わらずお人よしだ、と秀吉の顔を思い浮かべていたが、不意に眼前の半兵衛の顔が視界に入る。その表情は口惜しさに満ちていて、官兵衛はわずかに表情を歪ませた。ぼろぼろと、官兵衛の痩せこけた頬を無数の雨粒が濡らして、耳まで伝い落ちて行く。それが雨ではないとわかっていたが、官兵衛は見て見ぬ振りをした。
官兵衛には、半兵衛の感情が理解出来ない。理解は出来ないのだが、己が為に半兵衛が取り乱すことには多少の罪悪感を感じてはいる。半兵衛は、いつも余裕で官兵衛の上へ上へと行く男だと思っていた。その男がたかがこれしきの事で、年甲斐もなく涙を零すのかと思うと、つい手が伸びた。

「では、…約束しよう。私は笑わない」
「…そんなの、駄目だ。そうしたら秀吉様の天下が来ない」
「秀吉様の天下は来る。卿と、…私が導く」

喋り続けると苦しくなるので浅い呼吸を繰り返し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。官兵衛が全て言い終わる頃には半兵衛の涙は止まっていて、ゆっくりと、ただゆっくりと官兵衛の腹部を撫でた。少し強く触ると官兵衛の表情が曇り、その形をかたどってみると少しずつへこんでいた。
酷い事をしたという自覚があるのだが、それを官兵衛は一切責めない。それがまた半兵衛の中で何とも言い難い感情へと変わり、ドンッと官兵衛の顔面の横へと拳を叩きつける。

「官兵衛殿が優し過ぎて嫌だ。俺、こんなに酷い事しているのに…なんで責めないの。秀吉様に嫉妬して、官兵衛殿の言い分何も聞かないで、官兵衛殿が吐くまで殴ってる。…やな奴だよ」
「…良い。卿にならば何をされても、…良い」

ぼんやりと、見下ろしてくる半兵衛へと伸ばした手を触れさせる。左右へと動かすようにして指先だけで頬を撫でたが、すぐに腕に力が入らなくなり床へと落ちた。その腕を再度上げようとしたが震えが伝わるだけで半兵衛には届かない。
その手を掬い上げるようにして半兵衛が握り締め、また泣いていた。
何がそんなに悲しいのか、やはり官兵衛にはわからない。何か自分は気に触るようなことでも言ったのか、思い返してみるが考えがうまく纏まらず散布していった。それを拾い上げる気も無く、ただぼんやりと半兵衛を眺め続ける。

「恐らく私は、…卿が好きなのだ」

不思議と漏れる言葉、不思議と漏れる笑み。
どれも官兵衛にとっては無意識のことで、半兵衛の涙がより一層溢れてくる。
涙にぬれぐしゃぐしゃになった顔はまるで童のようだと思ったが口にはせず、そういえばこの男は昔『泣きっ面の半兵衛』と呼ばれていたらしかったことを思い出す。出逢ってからというもの、そう言った表情は見たことがなかったものだからなんだか可笑しくて、また笑みが漏れた。






FIN.
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