朱に落つ花


はらはらと舞い落ちる雪は誰のために存在するのか。
雪だ。雪が降った。
何処を見渡しても雪が降っていて、地に落ちては溶けて、消えた。



 徳川が天下を平定して、安息の時が訪れた。戦が無い、平和な時だ。
 上杉が徳川に降伏してからと言うもの、直江は一人になるとよく塞ぎ込んでいた。夢を語らった友はもう、此処には居ない。幾ら安息の時が訪れようとも、その友が居なければ意味は無いのだと。自分の中に安息のときなど訪れないのだと、そう思った。
 石田が、真田が、友が世を去ったとき共に死にたいと願った。最後まで己の信念を貫き、戦った友に殉じようと思った。
 ただ友との絆を切れなかったのと同様に、上杉景勝という、それ以上に切れない絆が直江の決心を鈍らせた。嗚呼せめて、この人が逝った後にと、そう思い今に至る。

 朝早く起きては庭先に出る。そこに今日は雪が舞い降りていた。嗚呼、雪か。と一人呟いては目を見張る。ただただ白いそれは、何かに触れると溶けて、消える。
 直江の手に、落ちては消え。落ちては消え。その感触だけを残して消え去った。

「兼続」

 声を掛ける。しかし直江は振り向かず、そのまま呆と突っ立っていた。しばらくしてから、息でも吐くかのように一言。

「……政宗公が、このような片田舎に何用ですかな」

 声だけでわかるほど、伊達はよく米沢を訪れた。ただ近いという理由もある。しかしそれ以上に伊達は、直江を気に掛けていた。
 散々馬鹿にしあってきた仲であった男が、徳川に降伏した途端、否友と呼んでいた男を失った瞬間不抜けた。それが許せなかった。アレだけ人の神経を逆なでしておきながら、こうもあっさりと引いてしまうのかと。
 まず最初に呼び名が変わった。山犬と、呼ばなくなった。
 それから目を、合わさないようになった。以前はもっと、うざったい程真っ直ぐに、目を見て話す男であった。

「用が無くては来てはいけぬのか」

 目を見て話すのは苦手であった。母が、見るなと、その醜い顔で自分を見るなというものだから幼い頃から人の目を見るのも、見られるのも苦手であった。
 唯今は、この男が自分の姿をその瞳に映し出さないのが、歯がゆい。
 見られることは苦手であった。だが羨望の眼差しを受けるのは、現金なことではあるが悪い気はしない。唯、それ以外の感情で見るなとそう思っていた筈の自分が今、この男からの視線を欲している。

「……。景勝様はまだ」
「奴に用は無い」

 話の糸口を探すように主君の名前を出す直江など、見たことも無かった。糸口など無くとも、あの口は開けば愛だの義だの、くだらないことを言っていた。それを聞くたび小ざかしいと思っていたが、それが無いなら無いで、物足りない。
 直江の言葉を遮って、ジャリっと玉砂利の上を伊達が歩く。直江の背が近くなるたびに、トクンと心臓が跳ね、落ちる。以前ならばこのまま蹴倒してやっていた。覚悟しろ兼続!と強声をあげて、蹴倒していた。

 それが今は、出来ない。

 変わったのは直江だけではなかった。否、直江だけであった筈だった。
 いつの間にか自分も変わっていた。変わらされていた。この男に。

「兼続」

 腕を伸ばし、後ろから抱きしめる。
 直江の戦装束は白いが、普段の衣の色も淡い色ばかりであった。それ故に薄着のまま外に降り立った直江はか細く映る。この雪の中に埋もれて、溶けてしまいそうだと。
それを引き止めたいと、手を伸ばしていた。
 直江と比べて伊達のほうが少し、背が低い。抱きしめて、すっぽりと抱きしめてやれるだけの背丈があればいいとどんなに思ったことか。嗚呼だから、今は亡きこの男の傍らに居た獅子のような男が、羨ましかったのかもしれない。
 抱きしめる腕に力を込めてもう一度、名を呼ぶ。その声がやけに震えていて自分でも驚いた。いつか殺してやると思っていた男を、引き止めている自分が居る。
人とは此処まで変われるものなのかと、初めて知ったのだ。知りながら、そこからどうすることも出来ない。ただ今までと、何一つ変わっていないと思い込んで、思い込ませて、そう――振舞うしかないのだ。

「死にたいか」

 常々思っていたことを言葉にして投げかけると、触れた指先から直江の動揺が伝わった。この男にはもう、主君の景勝しか居ないのだ。石田も、真田も、そして慶次も。今はもうこの男の心の中にしか生きては居ない。その中に自分は居ないのだと、伊達は知っていた。否、居たほうが可笑しい。だから自分は可笑しいのだと、そう思った。
 指先が震える。片手を腰に戻してカチャリ、音を鳴らして二丁拳銃の片方を取り出し直江の胸元に当てた。今度は少しも反応しなかった。

「兼続、死ぬか。景勝が重荷になって自ら命を絶てぬのであれば…わしの手でその命、絶ってやろう」
「……私に構うな。構わないでくれ…!お前が私に構えば構うほど…私の中でお前の存在が大きくなる。山犬如きの存在を……もう、失いたくないと思ってしまう」

 抱きしめていた伊達の手を振り払い、拳銃を叩き落す。直江は幼子のように蹲り、声を押し殺して泣いていた。認めたくない自身の考えと、思いとが交差する。
 伊達には思いがけない一言であった。思いがけない一言に、一度は矢張り驚いた。驚いて、愛しいと一瞬思った。しかしそれは錯覚であったのだと、ふと気づく。
 転がった拳銃の片方を取り出し、突きつける。
 この男は、否、これはもう直江兼続ではないのだ。自分の知っている直江兼続は死んでしまった。そう思えばもう、この目の前にいるものになど興味は無かった。
 一度、抱きしめる。抱きしめて、そのぬくもりを確かめてからしっかりと心臓を狙うようにして背に拳銃を押し当てた。瞬間、直江の動きが止まる。紛れも無い、死期を悟ってだ。

矢張りこの男、死にたがっていたのだ。

 ドンッという短く、太い銃声が庭に響く。
 直江の身体を支える伊達の片手には鮮血の朱。その朱の上に、はらはらと雪が舞い降りて赤く染まっては消え、伊達の手の朱を徐々に薄くしていく。
 直江の身体を摺り寄せる。何も、何も聞こえはしない。
 空を見上げればまだ雪は降り続いている。このままいけば雪は積もるだろうか。雪のように儚いこの男は、春が来る前に消えてしまった。消してしまった。
 ならばこの雪は誰のために降るのか。降る意味が、ないではないか。

嗚呼、まだ自分はこの男に捕らわれている。
なんと小さい男か。
ただ今は、
ただ今だけはもう少し、降りしきる雪の中で





FIN
060621

 

inserted by FC2 system